BFPJ主催の学びかいーテーマは「聖書を教えるのが楽しくなる!」「神の国、契約、キリスト」を通して聖書を貫くストーリーを学んでいく。

BFPJ主催の学びかいーテーマは「聖書を教えるのが楽しくなる!」「神の国、契約、キリスト」を通して聖書を貫くストーリーを学んでいく。

ー全く知らなかったイスラエルー

「絶対行ってきたらいいよ! もし行くのが難しかったら、私が道生くんの代わりに仕事をするから、絶対行ってきて!」

イスラエルへ行ってみないかという話がきた2013年。 

当時震災支援のスタッフをしていた私に「絶対この機会は逃してはいけない!」と2週間、自らの仕事を休んで北海道から私の代わりに駆けつけてきてくださったのが、以前一緒に震災支援をしていた松井博子さんでした。

なぜイスラエルなのか? 
聖書の舞台であったという以上に、特別な意味はあるのか? 
クリスチャンとしてイスラエルと関わる必要性はあるのか?

このような問いを、「疑問」としてもったことが無いほど、私はイスラエルのことについて何も知りませんでした。

ー決して諦めない契約という愛ー

2015年4月、BFPJ主催の勉強会のあと、都内のホテルの一室で、ひたすら泣きじゃくっていた記憶を今でも鮮明に覚えています。

今まで断片的にしか知ることのなかった聖書が創世記から黙示録まで繋がった瞬間。

自分自身がこの一貫する救いのストーリーに組み込まれているということ。どこまでもどこまでも、自らが結んだ契約ゆえに、決して諦めない、愛してやまない神様の愛。

このストーリーを前に、自分が今後どのような人生を歩むかと問われた夜でした。 その神様が現代、力強く働かれている、それに自分も参加したい!
これが私がイスラエルに対して興味を持ち始めたきっかけでした。

それゆえ、見よ、その日が来る。 ー主の御告げ ーその日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とは言わないで、ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らさせた主は生きておられる。』と言うようになる。 わたしは彼らの先祖に与えられた彼らの土地に彼らを帰らせる。 ーエレミヤ書16:14−15

2016年の秋、夫婦としてイスラエルに出発する前、松井さん宅にて。

2016年の秋、夫婦としてイスラエルに出発する前、松井さん宅にて。

淡路島にて家族旅行。 左から姉の愛、母の幸子、弟の心尽。 父は私が14歳の時、42歳で亡くなる。

淡路島にて家族旅行。 左から姉の愛、母の幸子、弟の心尽。 父は私が14歳の時、42歳で亡くなる。

ー自分にとっての神ー

3代目のクリスチャンホームに生まれたこともあり、教会へ行く、聖書を読むという習慣は浸透していました。 

しかし、「親がクリスチャンであるから、自分もクリスチャン」という感覚が強く、クリスチャンホームに生まれていなかったらどうなっていたのかな?とよく考えていました。 
「自分が神様を見つけ、信じる決断をした」・・・という視点の中で信仰生活送っていたので、人生で起こる様々な困難に直面した時、「愛の神様であれば、なぜこのような事を許すのか」と神様という存在が分からなくなってしまいました。

しかしそこで気付かされたのは自分が信じていた「神」は私の人生を豊かにするための「神」であったということ。

そうであれば、自分が信じていたのは天地創造の神ではなく、自分が信じたい神、言い換えれば、自分自身が神であったということでした。

イスラエルの事を知る時に、一つの大きなパラダイムシフトが起こっていきました。

ーその質問自体がー

現代のイスラエル、また世界情勢を見る時に皆さまはどのようなことを考えるでしょうか?「ユダヤ人は何か特別なのか?」「ではパレスチナ人はどうなるのか?」

神様はこの「世」を愛されたのだから、全ては平等ではないか。 一つの国、一つの人種を特別視するというのはちょっと不公平ではないか? ユダヤ人かアラブ人か、どっちが正しく、神様はどっちの味方なのだろうか?様々な考えがあると思います。

実は、聖書の中でも同じような質問をした人がいました。

さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を見上げると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将としてして、今、来たのだ」ヨシュア記5章13−14

味方か、敵かという質問に対して、「いや、どちらでもない」と答える主の軍の将。それに対して顔を地につけてひれ伏し拝むヨシュア。

神様の前に一対一で向かう時、「あなたは私の味方ですか?」という視点から、その「神」に対して自分自身がどの側に立つかということが求められます。

四国ほどの大きさしかない国が、連日ニュースで報道され、世界中の目がイスラエルに向けられています。 メディアは強いイスラエル、かわいそうなパレスチナという情報を発信し、クリスチャンはイスラエルか教会か?と問い続けます。

このイスラエルという国はまさに自分の心にある神対する視点をチャレンジさせる天秤のようなものと言えると思います。

嘆きの壁で祈るユダヤ人
ベンヤフダ通りで戯れる兄弟
エルサレムの夕間暮れ
正統派ユダヤ人の子供達と

ー続く計画、阻止する力ー

聖書を読むと様々な国々がイスラエルを滅ぼそうとしているのが分かります。

詩篇83:4には「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」と書かれ、モーセが誕生する時、男の子であれば皆殺しにせよとパロが命じ、(出エジプト1:16)イエス・キリストが誕生する時も、二歳以下の男の子をひとり残らず殺せとヘロデは命じました。(マタイ2:16)

そして現代に置いても、ホロコーストではユダヤ人というだけで600万人が殺されました。

なぜここまでして国々はイスラエル、ユダヤ人を皆殺しにしたいのでしょうか。
それは神様の御名のために他なりません。

神様の「御名」とは神様の「性質、人格」を表します。 約束したことを実際に行う真実な方なのかどうか、神様は誠実かどうか、この神様の「評判」が「あなたの神となる」と約束を結んだイスラエルにかかっており、もしイスラエルを滅ぼすことができるならば、「やっぱり神様は信じるに値しないではないか」という結論になってしまいます。

「それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。」
ーエゼキエル書36:22−23 

選ばれた理由ー申命記ー

ではなぜイスラエルなのか? 
なぜ神様は一つの民を選んだのか?
約束の地としてイスラエルという小さな土地を選ばれたのか?

その答えは申命記7章7−8節に書いてあります。

「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」

神様がイスラエルを選んだ理由は何か、なぜどんなに偶像礼拝に陥ってもイスラエルの民を諦めずに救い出すのか?

その答えは、主が愛されたから。
そして、先祖たちに誓われた誓いを守られたから。

創世記12章でアブラムに「あなたを通して全世界を祝福する」と約束し、アブラハムとその子孫を通して救いの計画が前進していきました。

その家系から救い主であるイエス・キリストが生まれ、エデンの園であった神様の完璧な支配、神の国を元どおりに回復するため、神様はイスラエルの民をご自身の救いの計画実現させる管として用い続けてきました。

ベンヤフダ通りにて

ー現代イスラエル=古代イスラエル?ー

「だって現代イスラエルって世俗的じゃん!」

友人と話しをするなかで、「神様が古代イスラエルと契約を結んだのは分かる。だけど現代のイスラエルが古代イスラエルと関係あるというのは違うと思う・・・」という意見をよく聞きます。

事実、現代のイスラエルでは50%以上のイスラエル人は世俗派(宗教を信じない)とされ、大々的に同性愛もサポートしています。

「そもそも今のユダヤ人は救い主を拒絶しているではないか?」という事がよく言われ、神学的にも「現代のイスラエル」という事に対して意見が大きく分かれています。

私たちもイスラエルで生活し、様々な意見を聞き、学んでいく中で、まだまだ分からない事があります。

しかし、その途上の中であっても確信を持って言えることは、
「神様が祝福するものを誰も呪うことはできず、神様が呪うものを祝福することはできない」ということです。

そして民数記22章でモアブの王バラクがイスラエルの民を恐れ、バラムという人を雇い、呪いをかけてほしいと頼みました。

「どうかいま来て、私のためにこの民をのろってもらいたい。この民は私より強い。 そうしてくれれば、たぶん私は彼らを売って、この地から追い出すことができよう。」民数記22:6

しかし、神様は直接バラムに「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」

そして結果、バラムは呪うことができず、このように言いました。「神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。 主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。」民数記23:8 

ザイオン・スクエアーにて

バラムはイスラエルを祝福することが主の御心にかなうのを見、これまでのように、まじないを求めにいくことをせず、その顔を荒野に向けた。」24:1

第一神殿崩壊、バビロン捕囚はイスラエルの罪の結果であり、神の裁きでした。
しかし、70年後神様は再びイスラエルの民が帰還できるようにしてくださいました。

もしA.D.70ローマによって第二神殿が崩壊したことが、イスラエルの民の罪の結果であると信じるならば、主によって裁かれたイスラエルの民がその土地に戻ってくるということは、主の許し無しには不可能ではないでしょうか。 

そして神様は、ユダヤ人が完璧になったら、完全に聖くあったら事を行うとは言わず、イスラエルの地に連れ戻してきた後、聖めると約束されています。

「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。」エゼキエル36:24-25

放火テロによって家が全焼された

ー平和の架け橋となるためにー

ある時、「もしタイムトラベルすることができたならどの時代に行きたいか?」という質問を現ブリッジス・フォー・ピースのCEOであるレベッカ・ブリーマさんは聞かれました。

彼女は真っ先に、「1933年以前に戻りたい。 教会を回ってヒットラーの著書である「我が闘争」を読んでもらって、どれだけおかしいか、この思想がもたらす悪が、どれほどの人々の命を奪うのかを伝えたい」と答えたそうです。

現代のユダヤ人が「クリスチャン」と聞くと、連想させるのはスペイン異端審問(キリストを受け入れないユダヤ人をカトリック教会が処刑する)ホロコーストや十字軍です。

「ナチスはクリスチャン」というユダヤ人の間での常識は、現代のクリスチャンにとっては理解しがたいかもしれません。

イスラエルに来てこの事実を知った時に、「クリスチャンであるならば、そんなことするはずがない・・・」と思ったのですが、ユダヤ人は「ナチスはクリスマスの曲を歌ってたではないか。キリスト教会はナチスのメンバーを除名することもなく、何も声をあげなかったではないか。彼らがクリスチャンじゃなかったなんて言わないでくれ・・・」と言います。

この悲しい歴史により、アブラハム・イサク・ヤコブの神、天地創造された唯一の神様を信じるユダヤ人とキリスト教会の間に大きな亀裂が生じています。

旧市街でお店を営む正統派ユダヤ人の、モシェ・コピンスキーさんはこのように言っていました。「ユダヤ人は虐待を受けた子供たちのようなんだ。歴史上ここまで迫害されてきた人種はいないであろう。 常に嫌われ、常にいじめられ、そして殺され続けてきた。だから僕たちがなかなか他の人を信頼できないということを理解してほしい」

ー過去は変えられないが、未来は変えられるー

私たちは過去に戻ることはできません。けれど、「今」起こす行動と決断によって、未来を変えることは可能です。

現在、世界中のメディアはイスラエルを批判し、イランの核攻撃の脅威や、国内でのテロリズム、反ユダヤ主義は昔も今も憎しみの連鎖として続いています。

この時代に置かれているクリスチャンとして、この人間の罪がもたらす現実を突きつけられるものとして、決して無関心でいたくはないと思わされるかぎりです。

「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙り込まない。 その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。」
イザヤ書62:1

ー今が聖書の時代ー

皆さんは、もしタイムトラベルできるとしたらいつの時代に行きたいでしょうか?

初めてイスラエルの聖地旅行へきた時に、多くの方が

「イエス様が地上で歩かれていた時代だったらなー」「聖書の時代にタイムスリップできたらなー」と言っていました。

するとツアーガイドの方が、「皆さん! 今がまさに聖書の時代なんですよ! 聖書のストーリーは終わっていないんですよ!」と言い、衝撃を受けたのを今でも覚えています。

神様は必ずイスラエルの民を、このイスラエルの地に戻すと約束されました。

諸国の民よ。主のことばを聞け。 遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る」と。 
エレミヤ書31:10

「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。エゼキエル書36:24

わたしは、北に向かって「引き渡せ」と言い、南に向かって、「引き止めるな」と言う。 わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよう。わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを想像し、これを形造り、これを造った。」イザヤ書43:6-7

そして再びイスラエルの地を繁栄させると約束しました。

「イスラエルの神は、彼らを見捨てない。 わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。 荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉や、アカシア、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。 主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを想像したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るためである。」イザヤ書41:17-20

実際に1948年以前は荒廃していた土地が、建国以来2億本の植樹がされ、砂漠であるはずのイスラエルは現在バレンタインのシーズンのみでも、125億本の花が毎年ヨーロッパなどに輸出されています。

この約束が、今私たちの生きている時代に、まさに私たちの目の前で実現しています。そして現代に生きるクリスチャンとして、私たちは神様がしてくださったすばらしい御業を伝えていく特権が与えられています。

「主は生きておられ、まさにこの時代に奇跡を行われている!忠実なお方で、信頼するに値する!」

この自分がイスラエルを通してしった主の深い愛と、約束を何としても守られる忠実さを伝えていきたいというのが私たち夫婦の願いです。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
1ペテロ2:9

ー加われる喜びー

なんと素晴らしいことに、神様は御言葉を通し、ご自身の愛を忠実さを表されるだけでなく、私たちにも、この神様の計画に招いてくださっています。 

神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしは国々に向かって手を上げ、わたしの旗を国々の民に向かって揚げる。彼らは、あなたの息子たちをふところに抱いて来、あなたの娘たちは肩に負われてくる。」イザヤ書49:22

神様は国々に明確に分かる形で「旗」を振り、その神様が振られる旗に応答するものたちが、イスラエルの民を、イスラエルの地に抱きかかえてくると約束されています。 

現在世界中に離散したユダヤ人が毎月3000人以上イスラエルに帰還していますが、個人ではどうすることもできないように思えても、BFPのような団体を通して、実際に帰還支援に加われることはクリスチャンとして大きな喜びだと思います。

 

BFPのホームページ(http://www.bfpj.org/)からは様々なプロジェクトを通して実際に支援することができるので、ぜひ見てみてください!

現在BFPという団体で奉仕をしながら、写真や映像を通して主の栄光を国々に伝えていきたい、日本の教会に仕えていきたいというのが私たちの願いです。  
 

『主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。』

 詩篇96:3